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新著「こころ鴇色(ときいろ)にそめて」を発刊しました。

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免疫力を高め、健康のよい「笑顔」
記事本文

   徳島新聞 ✒読者の手紙✒

                2017.7.12付

 

🌻 意識して「笑顔」作り 上機嫌で! 🌻

                      鈴木綾子

笑顔でいるだけで免疫力が高まり、健康にいい。

しかも心から笑っていなくても、うそでも「笑顔のかたち」

にするだけで、免疫力が高まる、という科学的データーが

あることを知りました。

 

うそでも笑顔を作るというのがすごいですね。

世界を見ても国内の政治・経済を見ても、笑うどころでない

状況が多すぎる今日です。

 

でも自分から笑顔を作って上機嫌でいると、周りには楽しい

ことが大好きで笑顔のすてきな人がどんどん集まって来きま

す。それで自分にとっても居心地が良くなるというわけです。

 

また「笑い」がストレスを解消し、生活習慣病を予防して、

病気を遠ざける良薬になるという説を思い出しました。

「笑いの頻度と、一年後の認知機能との関連」を調べると、

「ほぼ毎日笑う人」と「ほとんど笑わない人」では、一年後

に、後者の方が認知機能の低下が大きい、という調査結果も

出ているそうです。

 

 うれしいことや幸せなことがあると、自然に笑顔ができて

も、何かの失敗や大変なことに直面したときに、笑っていら

れるかどうかが問題です。それができる人を「上機嫌の天才」

というそうです。

 

楽観主義、プラス思考、ポジティブなどの言葉はだれも知って

いますが、まず自分から笑顔を作りませんか。

そうすれば、種々の問題がきっと良い方向に向いて行くような

気がします。 

                 

 

 

 

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鈴木綾子の講演会「こころ鴇色にそめて」
記事本文

「親と子の心のふれあい講演会」

 

🏫 先週の土曜日、板野郡の小学校に、講演に行かせて

いただきました。

「三木文庫」のすぐそばにある小学校で、古い伝統と

明るく元気な雰囲気が調和した、魅力的な学校でした。

 

校長先生の優しさに包まれて、嬉しく感動的な講演会

になりました。

心から感謝いたします。

 

  『校長室だより』を送っていただきました。

 

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ゲーテの言葉「さあ! 新しいことをはじめよう」
記事本文

2017.5.17付 徳島新聞「読者の手紙」✒

                  鈴木綾子

 

さあ!新しいことを始めよう

            ゲーテの言葉

4月28日付徳島新聞「人」の欄に紹介された、甲斐睦教

さんの記事を読みました。

 

宮崎県庁を退職後、昨夏、ロンドン大学大学院東洋アフリカ

研究学院(SOAS)に62歳で留学。

1902年の日英同盟について、両国の公文書に光を当てて

研究するのが目的とのことです。

なぜなら宮崎県出身の小村寿太郎が外相時代に結んだ同盟

からなのです。 

 

その郷土を愛する熱意と行動力に敬服しました。自分の年齢

の半分以下の学生たちと一緒に学びながら、イギリスへと送

り出してくれた家族に、学位を修得して恩返ししたいという

強い決意も伝わってきました。

 

ふと、ゲーテを思い出しました。

「年をとるという自体、新しい仕事をはじめることである。

行動をすっかりやめてしまうか、あるいは、新しい役柄を意

と自覚をもって引き受けるか、どちらかである」

ゲーテは、82歳で生涯を閉じるまで、活発に行動し続けま

した。

 

団塊の世代も古希を迎え、喜寿の方も傘寿の方もまだまだ

元気な方が沢山いらっしゃいます。

「体力のあるうちに、さまざまなことに挑戦したい」との

甲斐さんの話に共感、私も少しでも郷土のお役に立つこと

ができればと思います。

「さあ、新しい仕事をはじめよう!」

という気にさせていただきました。 👧

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読書感想文を募集します!「阿波の歴史小説37」
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第2回 読書感想文の公募のおしらせ

昨年に引き続き、第2回読書感想文の募集を行います。

昨年の第1回は、全国各地から応募をいただき、中学生

・高校生・大学生、20・30・40・50・60・70・80代

まで年齢層も幅広く、個性あふれる魅力的な感想文を

寄せていただき、本当にありがとうございました。

 

第1回の「優秀作品」8篇を、37集に掲載しております

ので、ご参考なさってください。

今年も、皆さまのご応募を、心からお待ちしております。

 

阿波の歴史を小説にする会 事務局  鈴木綾子

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勝浦町のひな祭り・おひな街道をたのしんで
記事本文

徳島新聞「読者の手紙」2017.3.19

             鈴木綾子

  勝浦の「つるし飾り」に拍手!

 

勝浦町内を県道が走る西岡地区に入ると、はっとする

ような明るい雰囲気に包まれます。

それは昨年までなかった「つるし飾り」が商店や民家

の軒先を彩っているからです。

 

ピンクの花びらのようなまるい玉が目を引き、どなた

が作られたのかと気にかかっていたところ、11日付の

徳島新聞地域面で、勝浦町内の60代の2人の女性が考案

し、200個余りも手作りしたとの記事を見ました。

 

高齢化で、ひな人形の飾り付けのできなくなった家庭

増えたことを憂い、考案したといいます。

この2人の町おこしに対する熱い思いに頭が下がりました。

 

西岡商店街から勝浦中央商店街、さらにお雛さまの奥座敷

と称する坂本地区までの長い「おひな街道」を、見事に華

やぐ出来栄えに、心から拍手を送りたと思います。

 

今春、孫娘の初節句ではじめて雛人形を購入し、東京に贈

りました。

健康と成長と幸福を雛人形に託するいにしえからの人々の

心を、しみじみと味わうことができました。 

 

雨の日、街道の軒先でビニールをかぶり、雨風をしのいで

いる人形を目にすると、この人形にも孫の成長を託した人

がいて、それぞれにドラマがあっただろうと感慨深くなり

ました。

 

全国から送られるひな人形を大事に扱い、保存してくださ

る勝浦町の皆さんに感謝しています。👧

hinakaidou0

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四国放送で、「イカロスの白い翼」が放送されます!
記事本文

  「ふるさとラジオ小説」

「イカロスの白い翼」鈴木綾子作

 📻四国放送ラジオをお聞きください!

 2017.2.26㈰ 朝 8:10〜30

 2/26 3/5 3/12 3/19 

 以上の4回位、毎週日曜日に連続放送です。

 

 ✈「イカロスの白い翼」✈  抜粋  鈴木綾子作

 

徳島市と小松島市の境にある根井鼻から、阿南市との境の和田ノ鼻

までを結ぶ小松島湾、その中程に金磯海岸が広がる。空海が建立し

たという金磯弁財天の社があり、亜熱帯の灌木に覆われた弁天山の

周りを、太平洋から流れ寄る潮が静かに回っている。

 

知重は金磯の砂浜に座り込んで、膝小僧を抱えた。潮騒の単調な

リズムに合わせて変化する波色を眺めている間に、空がゆるやか

に茜色に染まって

きた。

「おうい、知重」

「あっ、お父ちゃん」

「また、来とったんか」

父の国保も隣にしゃがんだ。

「お父ちゃん、海の向こうにはどんな国があるのかなと想像する

のが楽しいんだ。海が見える所で生まれて、ぼくよかったと思うよ」

「ほう、どこで生まれるかは、親次第だし、ご先祖はん次第やな」

「ご先祖はん?」

「ほうじゃ、うちのご先祖はんのことを、お前にも知っといてほし

いな。幾原家の先祖がこの金磯で農業を始めたんは、今からもう二

・三百年も昔のことじゃ。この金磯の潮干潟に水田を開くために、

皆で力を合わせて、金磯一円が農業地帯になったんじゃ。ほなけん

ど台風で勝浦川が氾濫した

ら、芝生川から洪水が押し寄せてきてなあ、そのうえ満潮と重なっ

たら、田んぼに潮が入って稲がぜんぶ潮枯れしたことも、何べんも

あったそうじゃ」

「それでも、ずうっと農業を続けてきたん?」

「大勢の人が一生懸命協力して開墾し、守り抜いてきた金磯新田や

けんな」

 国保は鉢巻を外し、その薄汚れた手ぬぐいで額の汗を拭いた。

「ぼくも大人になったら、世のために役に立つ人間になりたいな!」

「ほな、兄ちゃんに負けんようにがんばれよ。もう、そろそろいな

んか、飯じゃ」

知重は父の逞しい背中を追いながら歩いた。

社の前で、アコウの長い枝がゆったりと揺れていた。

 

          2

「知重、小松島の尋常小学校を出たら、都会の中学校に行ったら

どうか」

県庁に勤めている兄の行次郎が言い出した。

「地元ももちろん大事だが、田舎ばかりでいるとどうしても視野

が狭くなる。」

「兄ちゃん、都会ってどこ?」

「今、ぼくは徳島市で吉野川架橋計画に携わっているが、県外か

ら来た同僚が言うには、京都にある岡崎中学校には、全国から優

秀な生徒が集まっていると言うんだ」

 知重は父に目を向けた。その時、行次郎が父親の前に座り直し

て、

「お父さん、どうだろう。学費は私に出させてもらいたいが……」

母のミツがおどろいた眼で、国保の反応をうかがっている。

「知重、お前は弟思いの兄貴を持って幸せもんじゃ。しゃんと学

ばせてもらわなあかんぞう」

父の許可を得ることができ、知重は入学試験に臨んだ。倍率は發

ったが、無事合格通知が届き、桜の蕾が膨らみはじめた頃、いよい

よ京都へ旅立つことになった。

出発の日の朝早く、庭の青石を踏む下駄の音がした。同級生の宮ち

ゃんが訪ねてきたのだ。

「知ちゃん、遠いところの中学校へ行くんやってな。……体に気い

つけてな」

 細く白い手で唐草模様の風呂敷包みを差し出した。うつむいた宮

ちゃんのまつ毛に涙が光っているのを見て、知重はどきっとした。

「また、もんてくるけん……。宮ちゃんはどないするん」

「……」

宮子は黙って下を向いた。徳島の藍問屋に奉公に行くことになって

いた。

知重が風呂敷を開けると、竹の皮に包んだおむすびが三個入ってい

た。しっかり握ったおむすびのてっぺんに、赤い梅干が乗っていた。

明治三十二年、知重は京都平安神宮の側にある岡崎中学校に入学し

全国各地から集まってきた生徒は、身体も大きく自分より大人びて

いるようで、気おくれした。中でも一番背の高い三重県出身の前田

知重の席に寄って来て、いきなり、

「きみ、札幌農学校のウィリアム・スミス・クラーク博士を知って

るか」

 と言う。その声の迫力に押され、知重も席から立ち上がった。

「『少年よ、大志を抱け』と言った人だろう」

「そうだ。では、その続きの言葉を知っているか」

「それは……知らない」

 前田は右手を斜めに高く上げて、息を吸った。

 

少年よ、大志を抱け
しかし、金を求める大志であってはならない
利己心を求める大志であってはならない
名声という、つかの間のものを求める大志であってはならない

   人間としてあるべき すべてのものを 求める大志を抱きたまえ

 

前田が自信満々に諳んじるクラーク博士の言葉に、知重は衝撃を

受けた。

 知重の反応を見て気を良くした前田は、「クラーク博士のアメ

リカという国はすごいぞ。ぼくはいつかアメリカに行こうと思っ

ているんだ」と言う。

知重は下宿に帰ってから、クラーク博士の言葉を何度も反芻した。

「名声という、つかの間のものを求める大志ではいけない」

自分にとって、大志とは何なのだろう……。

知重は幼い頃からふるさとの海を眺めては、太平洋の向こうの国

へ行ってみたいと憧れていた。その一粒の火種が燃えはじめてい

た。

中学校で五年間学び、卒業するとすぐ農業をしに小松島にもどっ

てきた。兄の行次郎から、「自分が日露戦争に出征している間は、

お前が父を助けてやってくれ」と頼まれていたのだ。知重は畑を

耕しながら、アメリカの広大な農場を想像していた。

行次郎がロシアより無事帰国してきたのは、明治三十八年九月の

ことである。

陸軍中尉であった行次郎の雄姿に、知重は見入っていた。

「知重、お前も陽焼けして逞しくなったようだな」

「兄ちゃん、お疲れさまでした。京都の中学校に行かせてくれて

ありがとう。先生から学んだことや、友だちから刺激を受けたこ

とも、すべてが楽しかった。中学校に行って、何だか視野が広が

った気がする」

「そうか。お前の人生はこれからだ。何かやってみたいことはあ

るのか?」

 知重は空を見上げた。鳶が透き通った鳴き声で近付いてきた。

「兄ちゃん、ぼく、アメリカに行きたい」

「何いっ!」

側にいた国保が、手にした煙管

( きせる ) の火を火鉢に叩き落とした。

「戦争が終わって、やっと世の中が平和になってきたばかりでな

いか。何しに、好きこのんで、遠いアメリカくんだりまで行かな

あかんのじゃ。知重、うちは貴族や偉い家柄ではないぞ」

日頃は冷静な国保が、驚きと怒りを抑えることができない。

「お父ちゃん、きっと世のため、国のために、役立つ人間になる

けん。行かせてください」 

 真剣そのものであった。

その夜、一途な知重の性格を分かっている国保は、若き日の自分

を振り返った。

自分は家と土地と村のために、金磯の地から離れることはできな

かった。先祖から引き継いだ不動産と財産を守るのが自分の役目

と思ってがんばってきた。しかし知重に対して、たとえ親であっ

ても息子の夢を壊す権利はない。次男坊でもあるし、どこなりと

自由に羽ばたかせてやるのが親の務めではないか。

明くる朝、行次郎が「お父さん、知重の渡米の費用を都合したい

と思う。また旅券の手配も任せてほしい」と言ってきた。

実は国保も田んぼを一枚売ることに決めていたのだ。

 行次郎が旅券交付のために走り出したが、なかなか交付にはい

たらず、あの手この手を尽くし、もうこれで最後かもしれないと

いう日、夕方暗くなって行次郎が帰ってきた。

「知重、取れたぞ」

「ほんとうに」

「若い青年が一人で渡米するというのは、実に難しかった。

だが知重の一念が通じたんだと思う。これで神戸の港からモンゴ

リア号に乗って、アメリカのサンフランシスコまで行けるぞ。

覚悟はできているか」

「はい。何があっても、がんばります!」

知重の力強い声に、母ミツの瞼がぴくりと動いた。

大きな負担をかけた父や困難な旅券手配まで奔走してくれた兄

に対して、感謝の念とともに嬉しさで胸が張り裂けそうであった。

                                                     ✈つづく

 

 

 

 

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「海野十三の特集」です! 徳島ペンクラブ選集 part34 
記事本文

  海野十三(うんのじゅうざ)特集

  「徳島ペンクラブ選集 part34」より

 

徳島新聞「とくしま出版録」に掲載して下さいました!

私は、海野十三夫人の英さんの思い出を原稿用紙10枚に

したためました。

徳島新聞の記事の下に、一部掲載させていただきます。

お目通しいただければうれしいです!👧

 海野十三夫人(佐野英さん)との出会い

                 鈴木綾子

 

 徳島城跡の中央公園に「海野十三文学碑」があります。

両手をのばしても届かないほど大きな御影石の土台に、半円の形を

したステンレス製のオブジェが、緑の陽射しを反射しています。 

園内に黄、橙、ローズ、ピンク、紫など数十種類の薔薇が開花し、

甘い香りが漂い始める頃、海野の祥月命日が訪れます。

 

「海野十三の会」のメンバーが、毎年五月十七日の命日に合わせて、

文学碑を清掃し献花が行われることを知り、初めて参加したのは、

平成十三年五月のことでした。

「徳島市出身の海野先生は、日本SFの父です。五一歳で早世され

たことが誠に惜しい。夫人の英さんは、今も東京でご健在です」

 山下博之会長の挨拶が耳朶に残りました。

 

私はSF小説に興味がある訳でもなく、海野の作品群を読破したこ

ともありませんが、郷土出身の作家への愛着を感じ、何か私に宣揚

できることはないかしらと、物好きな血が騒ぎはじめたのです。

(夫人にお会いしたい。話を聞いてみたい!)

 帰宅するなり手紙を認め、速達で投函したところ、早速英夫人か

ら電話がありました。

 

「お手紙ありがとう。いつでもいらして。 私もお会いしたいわ!」

 その声は、受話器がふるえるほどよく通る、しゃきしゃきの江戸

っ子弁でした。すぐに快諾をいただき、もうたまらなくなって、翌

朝一便の飛行機で上京したのです。

 

世田谷線の若林という小さな駅で下車し、閑静な住宅街に入り、番

地を探しながらキョロキョロしていると、パラソルをさした背の高

い婦人がこちらに歩いてこられたので、道を尋ねました。

「あら! 私が海野十三の次男の嫁なんですよ」驚きとうれしさに

一気に緊張がほぐれました。お出かけだった婦人はまた引き返すこ

とになりましたが、快く坂を少し上がった所のご自宅まで案内して

下さいました。

「お待ちしていましたのよ」

 

 初めてのお目もじにも関わらず、英夫人はまるで懐かしい旧友に

会ったように出迎えて下さいました。立縞の銘仙の和服を召されて

いました。煎茶を進めて下さる指先のローズピンクのマニキュアと、

彫金の大きな指輪が品よく似合っています。九十歳とは思えないほ

ど若々しくて粋な女性でした。

 

テーブルの上の燃えるような赤いカーネーションが目につきました。

すると、「書道のお弟子さんから、母の日にいただいたのよ」と即

反応されるのです。

 現役で書道教師をされている英夫人の目は、何かを求めるように

輝いて、こちらから質問の順番を考える間もなく、どんどんしゃべ

り始めてくれました。

 

 横浜の実家が侯爵の家柄で、日英貿易の実業家だった父親がロン

ドン出張中に生まれたので、英(ひで)と命名されたこと。姉妹は

みな大学に行ったが、同じ人生は嫌だと我が儘を通して大学に行か

ず、逓信省電気試験所に就職したこと。そこで無口で変わり者と評

判の男性がいて、それが佐野昌一(海野十三)だった。勤務しなが

ら小説を書いていると言う。 

 

ある日のこと、海野に呼び止められた。

「海野十三を世に出したいんだ。僕の所に来てくれないか」。

突然の申し出に、「おもしろそうじゃない。一役買おうかしら」と

即答したのよと言って、からから笑いました。

 

 英さんは十二番目の末娘で、父親から特に可愛がられていたので、

海野のプロポースも賛成してくれると思っていました。しかし、

「なにぃ? 相手は十二歳の年上で、しかも再婚、先妻が結核で亡

くなって、二歳の子がいる? 英、この結婚を許すわけにはいかぬ。

絶対にだめだ」。

 

ものすごい剣幕で反対されたのです。けれど英さんは微塵もたじろ

ぐことなく、冷静にしたたかに自分の思いを訴えて、ついに父親に

海野を会わせる日までこぎつけたそうです。

 

「主人は袴姿で父の前に座ったわ。毅然とね。父はうつむいて、海

野の話を聞いていた。そして最後にだまって頷いたの。申し分のな

い主人の挨拶に、断る言葉が見つからなかったのね」

 

 昭和五年に結婚。海野は三十三歳、英さんが二十一歳でした。

 少女のような瞳でテンポよく話す英さんを、海野の写真が静かに

見守っているようでした。 

一昨日の命日に、文学碑の前でみんなで撮ったスナップ写真をお見

せすると、

「徳島に行って、三日間でも静かに過ごしたいって思うことがある

の。でももう行かれないわ。足が悪くなってしまったからね」

「いえ、大丈夫ですよ。車椅子で空港までお迎えに参りますから。

ぜひ徳島にお越しください」

 英さんは目を細めて、窓の方を眺めていた。

 

「戦争に負けてしまって、一家心中をする夜のこと、突然、友人の

湊邦三さんが見えてね、主人と朝方までずっと話し込んでいたの。

夜が明けるやいなや、英、死を止どまれよ、と言うの。私にとって

生きることは、死ぬことよりも辛かったわ」と言って、唇をぎゅっ

と結びました。

 

 初めての訪問なので長居してはいけないと思い、一時間ほどで失

礼することにしました。玄関のドアを閉めるとき、「またいらして

下さいね。生きている限りお話しますから」と追いかけるように声

をかけて下さいました。

 

 帰宅してから海野の資料を読み漁りました。戦時中に軍事小説を

書いていたことの戦争責任を、海野は人一倍強く感じていたことを

知りました。

「敗戦日記」には、「ああ昭和二十年! 凶悪な年なりき。死中に

活を拾い、生中に死に追われ、幾度か転々。或いは生きる屍となり、

或いはまた断腸の思いに男泣きに泣く。生きることの難しさよ! 

さりながら我が道は定まれり。命ある限りは、科学技術の普及と科

学小説の振興に最後の努力を払わん」と記されています。

 

一家心中する夜に訪れた、湊邦三の言葉も残っていました。

「大義のために、生きるのだ。子どもたちのために、生きるのだ。

未来に生きようではないか」

湊の友情と情熱が、海野の胸の氷壁を溶かし、大義に生きる覚悟を

誓わせたのです。 

 そうして海野は本格的な作家活動に入りました。しかし昭和二十

二年に肺結核が再発し、喀血してしまいます。病気療養をしながら、

とにかく書きに書いて、売れに売れたのです。少年雑誌は創刊ブー

ムとなりました。

 

明くる昭和二十三年一月号からは、四冊の少年雑誌に新連載が始ま

りました。

『恐龍島』『百年前の世界』『不思議な植物』『怪星ガン』と内容

はバラエティに富んでいて、戦後の暗い世相の中で、日本中の少年

たちに夢と勇気を届け続けたのです。

 

――亡くなる一週間前に写真屋さんで撮ったという海野の写真は、

歌舞伎役者の女形のような顔立ちで、何とも優しすぎる目をしてい

ます。思わず自分の胸に手を置くと、ドキンドキンと心臓が打って

いました。私、恋をしてしまったようです。

 

明くる平成十四年も、新緑が萌え出す頃、世田谷線に乗って英夫人

を訪ねました。

「主人は阿波の焼き味噌が好きだったの。お味噌を小さなお皿で焼

くのよ」と懐かしそうに言っていました。

 

徳島に帰るやいなや、陶器店を回って焼き味噌の小皿を探しましたが、

知る人もなく扱っている店もありません。鳴門市の大谷焼窯元まで行

って、やっと見つけました。それは直径8センチ位の大谷焼の小皿で、

糸尻に6ミリほどの小さい穴が二つ開いています。皿に味噌を入れ、

その穴に火箸を差してひっくり返して火に炙ると、焼き味噌ができる

わけです。

お焦げが香ばしく、白いご飯にのせて味わうと、なんと絶品でした。

味噌焼の小皿に木頭の「柚子味噌」を添えてお贈りしました。

 

 するとすぐ、英さんから毛筆の礼状が届きました。リズミカルな力

強い筆さばきでした。

 

愛する海野との食卓を思い出してくれたかしら……と、想像するだけ

で幸せな気分になりました。

 

三回目に訪問したのは、その三カ月後の八月のことです。

都内の出版社で編集長をしている友人に、英夫人がお元気なうちにぜ

ひ取材してほしいと頼み込んでいました。恐れを知らない阿波女の一

念が通じたのか、編集長自らカメラマンと一緒に取材に行って下さる

とのこと。私も慌てて上京しました。 

 

英さんは藍染の総絞りの浴衣姿で迎えてくれました。浴衣の襟から

ブラジャーのレースが覘いているのに、はっとしました。手入れを

された長い爪は、真紅のマニキュアになっていました。ただ話され

るテンポが、前よりも少し遅くなっているような気がしました。

 

「主人は母親の愛に飢えていたのね。だから私は夢中になって支え

たのよ。三人の子どもを出産する度に、お手伝いさんをつけてくれ

たわ。執筆の合間には二人きりで散歩したり、歌舞伎座に連れて行

ってくれたり、ほんとに優しい人だったから。でも私だけじゃなく

って、他の人にも、友人にも皆に優しいのよ」

 

 微笑みながら襟元を直す仕草は美しく、しかも艶めかしいのです。

「戦後は月に十数本の連載を書いていたの。子どもたちの喜ぶ顔が

見たくて、熱狂する声が聞きたくてね、病気を押して書き続けて、

そして死んでしまったの。昭和二十四年五月十七日」

 

 ちりーん……。

風鈴が思い出したように、弱々しく鳴りました。

「悲しみは全部、おなかの中にしまって、生きてきたわ」と下腹に

手をあてる英さんの目の下に汗が滲んでいました。

 

その後、九カ月ぶり四回目の訪問は、平成十五年のやはり五月です。

それは渋谷区代々幡斎場の通夜式でした。

透き通る肌にクレオパトラのような鼻筋、頬にほのかな紅が差し、

本当に亡くなっているのかと、吸い込まれるように見入りました。

享年九三歳でした。

阿波藍の手しぼりの浴衣を着こなした英さんが語りかけるような

遺影の前で、合掌する手が震えました。月刊誌に掲載されたあの

月刊誌「潮」に掲載された写真が、まさか遺影になろうとは……。

 

 翌日の神式葬儀告別式にも、全国から海野十三ファンが大勢参

列され、徳島から夜行バスで上京したという山下博之会長と小西

昌幸副会長にもお会いできました。

 

 英さん亡き後も、海野十三の評伝を書くために、ご次男の暢彦

さんを訪ねました。

 

以前と何も変わらない部屋に、遺影が一枚増えていました。

海野が四人の子どもにそれぞれ手作りしたというアルバムや、

貴重な遺品を見せて下さいました。木々高太郎から直木賞受賞の

お礼にと贈られた、重々しい将棋盤の木箱を開けると、裏に

「千変万化」と墨で認められていました。木々は「海野がいなか

ったら木々高太郎はいなかった」と言っていたそうです。

 

 手塚治は「ぼくが空想マンガを描くきっかけやアイデアは、

海野十三の『火星兵団』のおかげである」と語り、「『日本沈没』

は、海野の『地球要塞』がイメージの原点にあった」と小松左京は

記しています。「『ドラえもん』のアイテム「四次元ポケット」も、

海野の『四次元漂流』が教えてくれた」とは、藤子・F・不二雄の

談です。

 

「千変万化」とは、一人の海野十三が千人の作家を育て、何万もの

科学小説が誕生するという意味だったのでしょうか。

海野があと十年生き長らえていれば、世に、海野十三の名を知らな

い人はいないだろうと思うと、口惜しさが込み上げてきます。

 

海野が亡くなって半世紀後、同じ皐月の空に旅立った、英夫人の

しゃきしゃきの江戸っ子弁が、風の中で響いているような気がし

ました。

 

海野十三の作品をこよなく愛し、研究し続けて来られた山下博之

先生は、海野十三の会会長として長年ご尽力下さいました。

 

非常に残念なことですが、今年九月二日、永眠されました。

先生をお見送りした葬儀の午後、マイカーは山下先生との思い出

の場所に向っていました。 

海野十三文学碑は、しっとりと慈雨に濡れていました。  了

 

 

 

 

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「阿波の地名の物語」徳島新聞に紹介されました 「阿波の歴史小説37集」
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 徳島新聞「とくしま出版録」で紹介!

 「イカロスの白い翼」  鈴木綾子作

 ✈小松島市出身、民間飛行士の草分け

   取材をしながら、胸が熱くなりました。

   若い方から先輩の方まで、ご一読いただきたい

   自信作です。👧

 

 

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徳島市の画家・飯原一夫氏 古典を描く  
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徳島市の画家 飯原一夫氏 古典を描く!

徳島新聞「読者の手紙」2017.1.30付

  飯原一夫さんの個展を見て

               鈴木綾子

「飯原一夫古典を描く」(2月5日まで県立文学

書道館)の鑑賞をするとと共に、先日催された、

飯原一夫さんのギャラリートークを拝聴しました。

 

どことなく郷愁を誘う画風で独特の世界観を醸し

出す徳島市の画家ですが、今回は日本の神話や古

典文学の世界を描いたものでした。 

 

古事記より10点、万葉集より16点、徒然草

り11点の大作をはじめ、伝唱説話の色紙絵など

全部で60点余り。

 

原文の解釈文と作者の感想が短いエッセイで綴

れていました。

 

中でも柿本人麻呂の和歌

「天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見ゆ」

が30号のキャンバスに描かれていて、一面の

星に舟が浮かぶ夢のような構図と色彩に魅了され

ました。

「子どものころ星空を眺め、またたく星の空間

身が引き込まれる感じがしたのを今でもはっきり

と覚えている」と添えられていました。

 

また宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」や詩的な幻想

画を描いたシャガールとの比較も。

「凡夫の身がこの歌を絵にしようなどとは無謀

であった」との一節には、作者の謙虚さがうか

がえました。 

 

87歳という高齢ながら、古典という新しい作品

に挑まれた背景には、膨大な参考資料に対峙する

情熱と自由奔放な想像力、創作する喜びとともに

鑑賞者を楽しませようとするひたむきさをトーク

から知ることができました。

 

徳島出身の友人が尼崎から駆けつけてくれ、

「内の世界がそのまま絵になっているから

心揺さぶられる」と感動する姿が印象的でした。

 

 

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阿波の歴史小説《37》「阿波の地名の物語」 完成!
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12月25日から、県下有名書店で発売なります!

 この度、阿波の歴史小説 第37集「阿波の地名の物語」

を、飯原一夫先生の装丁画により、刊行することができました。

会員各々が、阿波に生きた先覚者や歴史に埋もれた人々、

出来事や事件などを掘り起こし、史実に基づいた小説として

懸命に取り組みました。

また若い人から年配者まで、「阿波の歴史小説」を通し

徳島の歴史を知り、ふるさとに誇りを持ってもらいたいと念願し、

昨年に引き続き、第2回 読書感想文の公募を行う予定でござ

います。

どうぞよろしくお願いいたします。

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